1925年に現在の量子力学の原形となる数学的枠組みができてから、今年でちょうど100年。これを記念し、国連が2025年を「国際量子科学技術年」と宣言しました。 そこで、今回のFuture Impact Forumでは、量子コンピュータの研究をリードする藤井啓祐先生(大阪大学大学院)にその現状や未来、必要性について語っていただきました。
微小な世界を形作る量子力学
■量子の世界とは
量子コンピュータという言葉の冒頭に「量子」がありますが、その背景にある「量子力学」について、まずは簡単にご紹介します。
量子力学とは、物理学における一分野であり、ミクロな世界――つまり肉眼では捉えられないほど小さなスケールの現象を支配する基本的な理論体系です。どれほど小さな世界かといいますと、髪の毛は肉眼で見えますが、血液中の赤血球は数マイクロメートルのサイズで、顕微鏡がなければ見えません。さらに、パソコンに使われる半導体の配線幅はマイクロメートルを下回り、現在ではナノメートル単位で製造されています。このような極小な世界では、私たちが日常的に感じている物理法則とは異なるルールが働いています。そんな世界を支配しているのが、量子力学なのです。
■不思議に感じられる量子力学の考え方
量子力学の前身にあたる前期量子論は1900年頃に登場しました。この理論では、今までの常識とは異なる、直感では理解しにくい不思議な考え方が使われています。
例えば、量子力学を対象としない古典物理学では、ある粒子が存在するとき、状態を記述する位置や速度といった物理量は一つに定まり、ニュートンの運動方程式から未来の位置を正確に計算することができます。これは、私たちが直感的に理解できる物理学の考え方です。
対して量子力学では、位置や速度などの物理量が正確に定まっているという考えを最初から諦めるところから始まります。例えば、ある粒子が存在していることはわかっていても、その位置ははっきりとはわからないのです。「ここにいるかもしれない」「あちらにいるかもしれない」といったように、いくつかの可能性が同時に存在している状態にあります。このような状態を「重ね合わせ状態(スーパーポジション)」と呼びます。英語の「スーパー」という響きが、普通とは異なる、特別な状態であることを示しています。言い換えれば、粒子は一つなのに、まるで複数の場所に同時に存在している――と捉えることができるかもしれません。私たちの常識では考えにくいことですが、量子の世界ではこれが当たり前なのです。
重ね合わせ状態にある粒子は、「存在していることはわかるが、その場所がわからない」という不思議な状態です。しかし、それは「観測」された瞬間に変わります。粒子を機械や人間の目で観測すると、その粒子はどこかに「現れて」、位置が確定します。つまり、観測することで初めて、位置などの物理量が定まる――「ここにいる」と言えるようになります。このように、「観測するまでは位置が定まっていない」「観測すると位置が定まる」というのが、量子力学の基本的な考え方です。
■量子力学に懐疑的だったアインシュタインから実証可能な現代へ
「観測してみるまでわからない」という考え方は、なんとも受け入れ難い話です。月は見えなくても空にあるはずで、「目で見るまで存在しない」なんてことは誰も思わないでしょう。
量子力学の黎明期である1930年代に、かの天才物理学者であるアインシュタイン※1ですら、量子力学に懐疑的な立場を示しました。私たち人間の理解が浅いだけで、真に正しく理解すれば物体の位置を予言できるはずだと言ったのです。「神はサイコロを振らない」という有名な言葉も、こうした批判の一環です。
量子力学の奇妙なふるまいである重ね合わせ状態や観測による確定性は、「ベルの不等式の破れ」と称して実験的に検証されています。量子特有の強い相関をもつ「量子もつれ※2」を用いてその実証をした二人の物理学者クラウザー※3氏、アスペ※4氏と、量子もつれを情報伝送に応用した量子テレポーテーションの実証をして量子情報科学という分野を切り開いたツァイリンガー※5氏は、2022年にノーベル物理学賞を受賞しました。結果は測定してみるまでわからないという量子力学について、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と否定的でしたが、「神はサイコロを振る」というのを確かめた哲学的にも意義深い実験だったと思います。
このような直感に反したふるまいをする量子力学に対して、「不思議とは古い理論への執着」であるという佐藤文隆※6氏の言葉があります。常識に照らしてみると不思議に思うかもしれないが、ひとたびそれを受け入れてしまえば、意外と不思議という感情は消えてしまうというのです。実際、十数年にわたり量子力学と向き合ってきた私自身、もはや「不思議」と感じることがなくなってしまっています。
さらに佐藤氏は、「技術とは不思議を制御すること」とも述べています。不思議な理論を扱うことは一見難しそうに感じるものの、その不思議の根源である量子力学を使うことで、現象をコントロールすることができる。次章でお話しする「量子コンピュータ」は、まさに量子力学の重ね合わせ状態や量子もつれといった「不思議」を、最大限利用して計算をおこなう技術です。
- ※1 アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、1879〜1955年):ドイツ生まれの理論物理学者。
- ※2 二つ以上の粒子が互いに深く結びつき、一方を観測するともう一方の状態が瞬時に決まる現象。
- ※3 ジョン・フランシス・クラウザー(John Francis Clauser、1942年〜):アメリカの理論・実験物理学者。
- ※4 アラン・アスペ(Alain Aspect、1947年〜):フランスの物理学者。
- ※5 アントン・ツァイリンガー(Anton Zeilinger、1945年〜):オーストリアの量子物理学者。
- ※6 佐藤文隆(さとう・ふみたか、1938〜2025年):日本の宇宙物理学者。
量子コンピュータ開発の変遷
■新たなるコンピュータの必然性
さて、量子コンピュータの話に入る前に、「古典コンピュータ」と呼ばれる、私たちが日常的に使っているコンピュータの限界に目を向けてみましょう。量子コンピュータ登場の背景には、技術的な必然性があると考えているからです。
その一つが「ムーアの法則」の終えんです。ムーアの法則とは、半導体の集積度が約2年ごとに倍増するという経験則です。半導体内の配線幅を狭めることで、同じサイズのチップに、より多くの回路を詰め込めるようになります。これにより、より高性能なチップを安く大量に生産できるようになり、利益が生まれ、さらに技術開発が進む――。この好循環が加速度的に続いていくというのが、ムーアの法則です。
結果として、高性能な半導体が作られて今のコンピュータ性能に至るわけですが、ナノメートル単位で作られている配線幅は、量子力学的な現象を無視できない領域に入っています。例えば、「トンネル効果」という形で配線から電子が飛び出してしまい、電流の制御が困難になる。つまり、これ以上の小型化が物理的に難しくなっているのです。さらに、AIの進化スピードは半導体の進化スピードをはるかに上回っています。半導体は約2年で倍増するのに対し、AIは3~4か月で倍の性能向上を遂げていますので、半導体の進化はAIの進化に追いつけないでしょう。半導体の数を増やせばよいと思うかもしれませんが、それに伴って消費電力も増加し、やがて限界を迎えます。
このような背景から、従来とはまったく異なる原理で計算するコンピュータがなければ、立ち行かなくなってしまいます。そのため、米国の大手IT企業が次なるパラダイムとして、量子コンピュータに注目するようになりました。
■世界における量子コンピュータ
量子コンピュータの原理が提唱されたのは1985年です。以来、長らく研究されてきたものの、実際に動く量子コンピュータを作るのは非常に困難で、長い間、理論研究にとどまっていました。
転機が訪れたのは、Googleが量子コンピュータの研究に本格参入した2014年。ちょうど私がポスドク※7だった頃で、今でも鮮明に覚えています。当時、物理学者たちが基礎物理学的な興味や知的好奇心に駆られて細々と進めていた研究に、Googleが当時のトップ研究者だったジョン・マーティニス※8氏ら30人規模のグループを引き抜いて参入したことで、状況は一変しました。
最初は重ね合わせ状態をつくれるわずか5量子ビットからスタートしましたが、2016年にはIBMが小規模ながらもクラウド上で使える無料の量子コンピュータを公開しました。さらに、2019年にはGoogleが、54量子ビットを安定的に動かせる当時最高レベルの量子コンピュータを、同じく当時最高レベルのスーパーコンピュータと競わせました。その結果、スーパーコンピュータで1万年かかる計算を、量子コンピュータはわずか200秒で完了。この成果は「量子超越」と呼ばれ、世界中に衝撃を与えました。量子コンピュータの実現が目前に迫っていると世の中が過剰に反応し、「暗号システムが破綻するのではないか」「ブロックチェーンが崩壊するのではないか」という不安から、ビットコインが暴落したのがこの時です。
ただし、当時の量子コンピュータは暗号解読が可能なレベルには程遠く、現在も実用的な価値を生み出すほどには至っていません。コンピュータとしてはまだまだ赤ちゃんのレベルです。それでも、赤ちゃんレベルの量子コンピュータがスーパーコンピュータをしのぐ潜在能力の高さを示した点は、興味深い結果といえるでしょう。
- ※7ポストドクター。博士号取得後に任期付きの研究職に就く研究者。
- ※8ジョン・マシュー・マーティニス(John Matthew Martinis、1958年〜):アメリカの物理学者。専門は超電導量子コンピュータ。2025年にノーベル物理学賞を受賞。
■国産量子コンピュータの誕生
日本でも、4年遅れの2023年に、理化学研究所が同規模の国産量子コンピュータの稼働を開始しました。続いて、富士通が2号機、大阪大学が3号機を開発。世界的に見ても、同時期に複数台の大規模量子コンピュータが立ち上がったのは非常に珍しく、日本の開発手法の特徴が表れています。
海外の巨大IT企業や中国の国家プロジェクトは、垂直統合型の開発――つまり、自社内ですべての開発を完結させる方式を採用しています。一方、日本では水平分業型アプローチを採用し、企業や大学など複数のプレーヤーが技術と予算をもち寄って分担する形で開発が進められています。現在国内では合計8機が稼働していますが、初登場が2023年だったことを考えると、日本での成長スピードには目を見張るものがあります。さらに、大阪・関西万博に向けて、理化学研究所と大阪大学が、制御装置など周辺部品も含めた純国産量子コンピュータの開発をおこなってきました。年々デバイスとしての進化が続いています。
■量子コンピュータのしくみ
では、そもそも古典コンピュータと量子コンピュータのしくみは、どのように異なるのでしょうか。私たちは普段0から9まで10種類の数字を使って計算をしていますが、コンピュータでは10種類の数字を表現することはなかなか難しいため、シンプルに0と1の二進数を使って情報を処理しています。0をスイッチのOFF、1をスイッチのONといった具合です。現代のコンピュータには、こうしたスイッチ(トランジスタ)が10億個以上搭載されています。
このしくみは、二つの箱と一つのボールで説明できます。ボールが左の箱に入っていれば0、右の箱に入っていれば1とします。ボールは一つしかありませんので、どちらか一方の箱にしか入れることができません。しかしながら、量子力学の世界はルールがまったく異なります。ボールが左右両方の箱に同時に存在するような、まさに重ね合わせの状態が可能です。つまり、0と1両方の情報を同時にもつことができます。これを「量子ビット」といいます。古典的な0か1かのビットに対し、量子ビットは0と1両方の可能性をもったまま計算を進めることができます。さらに、量子コンピュータが計算を加速させるメカニズムには、「複素確率振幅」という波の性質が関係しています。これにより、特定の解の確率を増幅させることが可能になるのです。
■新たなる革命の到来へ
歴史を振り返ると、文明や技術が爆発的に進化する瞬間には、必ずなんらかの「律速」が突破される契機があると考えています。これは、生命の誕生から現代のAI革命に至るまでに共通するダイナミズムです。
人類はこれまで幾度も、社会の構造が根本から変革される様を目撃してきました。かつて、力学的なエネルギーは人力や動物に依存していました。しかし、エンジンの登場によって化石燃料を活用して膨大なエネルギーを生み出すことが可能になり、産業革命が進みました。情報のやりとりも、かつては対面や手紙など限られた手段しかありませんでしたが、電話やインターネットの登場によって、情報伝達能力は飛躍的に向上しました。さらに、データの蓄積と計算資源、いわゆるコンピュータの進化によって、私たちは今まさにAIの爆発的な進化を体感しています。
AIは貪欲に計算資源を求めていますが、従来の半導体技術には物理的な限界があると述べました。そこで次にAIが求めるのは、量子コンピュータです。計算能力の限界を突破する可能性を秘めている量子コンピュータは、AIのさらなる進化を支える基盤として期待されています。量子コンピュータの登場も、「律速の突破」による技術の爆発的進化というダイナミズムの延長線上にあるのではないか、というのが私の考えです。
量子コンピュータに期待されていること
■量子力学を必要とする計算
量子コンピュータで実際に何ができるのか――これは多くの人がもっとも関心を寄せるポイントではないでしょうか。量子コンピュータが目指す未来の形、その可能性についてみていきましょう。
量子コンピュータが得意とするのは、分子や材料など、量子力学を必要とする計算です。量子力学の原理に基づいて動作するため、量子力学に従った自然界の現象をコンピュータ上で再現することが可能になります。例えば、水は0℃で凍り、100℃で沸騰するという現象は周知のとおりですが、実はこれを量子力学の視点から導出することは非常に難しいのです。最先端のスーパーコンピュータでシミュレーションしても、沸点を第一原理的に精密に予測することは困難です。一方、量子コンピュータは自然現象と同じ量子力学の原理に基づいているため、こうした自然現象を精密に解明でき、新たな薬の開発や効率のよい触媒、新機能性材料の創出など、さまざまな分野への応用が期待されています。
■数理的構造と量子力学の親和性
もう一つの注目領域は、素因数分解や機械学習、確率的な計算など、セキュリティやAI、金融分野で活用される計算です。一見、量子コンピュータと関係がないように思われるかもしれませんが、機械学習ではベクトルや行列が確率論の観点で使われていて、量子力学はそもそも確率による理論です。これらの理論の背景にある数理的構造は、量子力学と親和性があります。
素因数分解はRSA暗号※9の基になっている背景からも、よく例として挙げられます。現在のスーパーコンピュータでは、600桁の数字を素因数分解するのに宇宙年齢ほどの時間をかけても解けないとされていますが、100万量子ビットの量子コンピュータであれば、わずか8時間で解けると予測されています。素因数分解が量子コンピュータの性能を示す代表例として使われるのは、量子の重ね合わせ状態が探索型の計算に適しているからです。かつては、この600桁の数字の素因数分解には、理論上1億量子ビットが必要だといわれていましたが、アルゴリズムの改良によって必要とされる量子ビット数は年々減少しています。一方で、実際に稼働する量子コンピュータの量子ビット数も増大し続けており、理論と実績の性能が交差する時点から、量子コンピュータの本格的な利用が始まるでしょう。
なお、こうしたアルゴリズムの改良によって、実用化に必要な量子ビットの数を減らすことも、私の研究テーマの一つです。そのため、素因数分解もターゲットの一つにあたります。
- ※9 素因数分解の解読困難さを安全性の根拠とする暗号技術。ウェブブラウザやインターネットショッピングなど多くのシーンで活用されている。
■量子テクノロジーで開く未来社会
国の戦略として掲げられているムーンショットプログラム※10では、「2050年までに、経済・産業・安全保障を飛躍的に発展させる誤り耐性型汎用量子コンピュータを実現」が目標とされています。量子コンピュータだけでなく、量子の特性を応用することで、より精密な情報のセンシング※11や、量子レベルでの情報セキュリティを実現する、「量子通信・量子ネットワーク」の開発も進められています。量子情報を取得し、安全に通信し、それを高度に処理する――この三つがそろったとき、既存技術の延長線上にはないイノベーションが実現すると思います。量子力学の理論を応用したAIの登場も、今後の展望の一つです。
最後に、私たち量子力学の研究者が目指すのは、自然界をより深く理解し、新たなテクノロジーの創出につなげることです。世界は、量子力学に基づいた巧妙なメカニズムであふれています。例えば、渡り鳥は地磁気をセンシングしながら海を渡ります。磁場を視覚的に捉えているとされ、背後には量子もつれや重ね合わせ状態といった量子力学的な現象が関与しています。
こうした自然界が見つけたある種の「答え」は、地球という惑星が約46億年をかけて試行錯誤しながら導き出した結果ともいえます。私たちが知っている生命や現象は、その過程で生き残った「成功例」にすぎません。自然界と同じ原理で動くプログラムを構築できるコンピュータがあれば、答えが導かれる過程を量子レベルで理解できると期待しています。量子コンピュータとは、現在のコンピュータの延長線上にあるのではなく、自然界を参考にした新たな方向性を与えてくれる、そんな存在になるだろうと考えています。
- ※10 ムーンショット型研究開発制度。内閣府が定めた、日本発の破壊的イノベーションの創出を目指し、挑戦的な研究開発を推進する大型研究プログラム。
- ※11 センサーを用いて物体の状態や動きなどの情報を収集する技術。
Text by Keisuke Sumi
Photographs by Masaharu Hatta
大澤真幸座長の視点
今、私たちはAIの進化の渦中にあり、その影響で私たちの仕事も生活も文字通り日々変化している。そんな中にあって、社会全体を大きく変容させるような、次なるイノベーションの中心となるテクノロジーが何か、ということを私たちはすでに気にしている。もっとも、その次のステージの主役はもう決まっている。次の主役は、量子コンピュータである。
Future Impact Forumが発足してからもうじき1年というタイミングでおこなわれた第7回目の会では、その「量子コンピュータ」の研究の最前線で活躍している藤井啓祐さんに来ていただき、量子コンピュータとは何なのか、どんなことに応用されうるのか等について、講演していただいた。
量子コンピュータは、量子力学の原理を直接的に応用したコンピュータである。その計算速度は、とてつもなく大きい。2019年段階の、Googleが開発した初歩的な量子コンピュータ(54量子ビット)でも、当時の最高レベルのスーパーコンピュータで1万年かかる計算を、わずか200秒で完了したという。将来実現するに違いない十分に大きな量子ビットの量子コンピュータならば、現在のスーパーコンピュータが宇宙年齢(宇宙が誕生してから現在までの時間)をかけても解けない計算を、8時間程度で解くだろう、と予測されているという。
*
量子コンピュータというテクノロジーのもっとも驚くべきことは、極めて思弁的で形而上学的な謎が、これ以上はないほどにダイレクトに、工学的に利用されていることである。形而上学的な問題とプラクティカルな応用の極端な短絡。これはめまいがするほどだ。
量子力学を研究すると、そもそも何かが存在している、ということはどういうことなのか、わからなくなってしまう。
例えば、今、刑事が、「犯人Xは、東京に潜伏しているか、大阪に潜伏しているか、五分五分です」と言ったとする。もちろん、これは、Xが東京にも大阪にもいる、という意味ではない。Xは東京か大阪のどちらか一方にいるのだが、刑事がもっている情報では、どちらであるとも断定できない、という趣旨だ。
ところが、量子力学では、Xは東京にいて、かつ大阪にいる、としか言いようのない状態が出現する。Xは一人なので、同時に東京にいて、大阪にいる、ということは不可能なはずなのに、この両立不可能な二つの状態が、同時に存在する。これが「重ね合わせ状態」である。実際に観測すると、Xは東京か大阪のどちらかで見つかるのだが、それは、Xがずっと東京に(大阪に)隠れていた、という意味ではない。観測前にはXは東京にいてかつ大阪にいた、と記述するほかないのだ。量子コンピュータは、この重ね合わせという不思議をそのまま活用する(だから、計算が極端に速い)。
「重ね合わせ」とは、単一のモノが、両立不可能な複数の状態を同時にとることである。Xは一人なのに、まるで二人であるかのように、東京にも大阪にもいる。もう一つの量子力学の不思議、「量子もつれ」は逆に、モノが複数なのに、単一であるかのようにふるまう現象である。
「重ね合わせ」や「量子もつれ」は、そもそも存在とは何か、という哲学的・形而上学的な問いを突きつける。この問いに答えを与えるのではなく、開かれた謎のままに利用するのが、量子コンピュータのキモである。
*
量子コンピュータが実用化されたとき、この社会にどんな影響を与えるのか? 現段階で具体的に予測できる人は誰もいない。今までの歴史を振り返れば、決定的なテクノロジーはいつも、意図せざるところに波及し、もともとの意図を超えたことに利用されてきた。意図や想定を超えたところで、主に影響を与えるのが、鍵となるテクノロジーである。量子コンピュータもきっとそうなるだろう。
ただ一つのことは確実である。科学に国境はないが、その研究体制は社会的なネットワークの中に組み込まれているので、国境をもつ。量子コンピュータのような決定的な技術の場合には、初期段階でリードした国が、その後もずっと主導権を握ることになる。
量子コンピュータの稼働開始という点では、日本は少しだけ遅れた。しかし、藤井さんのように、周囲のほとんどの人が実現不可能だと見なしていたときにもまったく諦めずに、コツコツと研究を続けていた研究者が何人かいたおかげで、日本は初動の遅れをすぐに取り戻し、現在日本国内には8機もの量子コンピュータが稼働している。
これからが本当の勝負になる。もし遅れをとったら、その代償は高くつくだろう。
*
私は、Future Impact Forumが始まった当初の段階から、藤井さんをお招きしたいと思っていた。が、ためらいがあり、すぐには依頼できなかった。量子力学は訳がわからないし、その応用となれば、もっと訳がわからないことになる。藤井さんに講演をしていただいても、聴く側は「?」ということになって、まったく議論にならないのではないか。こんな心配があった。だが、これはまったくの取り越し苦労であった。いつも通り、いやいつも以上に活発で、楽しい議論が交わされた。
バックナンバー
- グローバル文明の没落と日本 | 佐伯啓思氏
- 人工生命から人間を考える | 池上高志氏
- AI時代を生き抜く人間の思考 | 今井むつみ氏
- アメリカとは何か? 〜社会的分断のポリティクス〜 | 貴堂嘉之氏
- 脳の本質からAI設計の新しい方向を考える | 乾敏郎氏
- 国のこわれ方 ~一つのケース・スタディとしての9世紀~ | 片山杜秀氏
- 国際量子科学技術年に考える量子パラダイムへの展望 | 藤井啓祐氏