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クオリティ・オブ・サソエティ2026

複雑な世界を生き抜くために――ブリコラージュとエンジニアリングの思考様式の往還がもたらす豊かな創造性 

DIALOGUE

予測が難しく、先行きが見通しづらい時代に、私たちはどのように未来に立ち向かえばいいのでしょうか――。未来に向けて豊かな創造の道を切り開くための思考様式について、環境人類学を専門とする里見 龍樹先生と、数学を軸に探究を続ける独立研究者の森田 真生先生のお二人に語り合っていただきました。

文化人類学者のレヴィ=ストロース※1が提示した、「ブリコラージュ」と「エンジニアリング」という思考様式は、今なお私たちに未来を形づくる視点を与えてくれるように思います。この一見対照的な二つの思考様式にはどのような特徴があるか、具体的な事例を交えてお話しいただけますか?

里見 「ブリコラージュ」という思考様式は、レヴィ=ストロースが『野生の思考』で取り上げたことで広く知られるようになりました。特徴を三点に絞ると、第一に、使われる素材の多くが「残り物」や「廃物」であり、目的に応じてあらかじめ準備されたものではありません。第二に、つくり手は一方的に素材を使うのではなく、その特性や制約に耳を傾けながら、素材に導かれるようにして生かしたり採り入れたりと、いわば受動的な姿勢をもちます。第三に、そうした過程の中で、意図しなかった結果に出会う「楽しさ」や「遊び心」が生まれることも、ブリコラージュの特徴であり魅力だと思います。

里見 ブリコラージュの本質を体現されていますね(笑)。もともと「ブリコラージュ」はフランス語で「日曜大工」や「DIY」を意味し、特別な学術用語ではなく、暮らしに根ざした実践的な言葉です。森田さんが古い家屋を手入れしながら、限られた素材と向き合い、想定外の発見を拾い上げていった過程は、まさにそのお手本のように感じられました。ブリコラージュにおいて、大切なのは素材を一方的に使用することではなく、素材の側から差し伸べられる手をどう受け取り、そしてその瞬間の状況に合わせてどう変えていくかという柔軟さです。

森田 ありがとうございます。一方で、レヴィ=ストロースは『野生の思考』の中で、仕事の一つ一つについて、「計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せ」ないのが「エンジニア」だと論じています。実際にはエンジニアと言ってもいろいろな人がいると思いますが、レヴィ=ストロースの言う意味での「エンジニア」の世界においては、割るのを失敗した瓦のような規格外の素材は、当初の設計や計画から逸脱してしまっているので、使われることなく、切り捨てられてしまうでしょう。

里見 はい。エンジニアリングとは、特定の目的を達成するために設計図に基づいて構築するという、極めて計画的なアプローチを指します。既知の法則や原理を前提に、最適なプロセスを設計して効率性を追求する考え方ですから、素材の選定や用途もあらかじめ定められている「閉じた」状態で進められます。「開かれた」状況に応じて即興的に対応するブリコラージュとは対照的な思考様式と言えます。しかし、エンジニアリング的な思考もとても重要で、対象を固定することで変動の余地を最小化し、効率化や最適化を実現するのに欠かせない考え方です。

森田 私たちの日常生活は、エンジニアリング的な思考を基盤とした技術に支えられています。例えば人類のもっとも基本的な活動の一つである農業の現場においても、本来は複雑な生態系を、目当てとする作物を中心として、昆虫や動植物との関係が生み出す複雑性をなるべく排除しながら、特定の作物の成長に最適化された環境を整備していく方法が一般的です。一方で、生命とは本来、開かれた存在です。今や科学技術が進み、遺伝子レベルで生物を理解できるようになっているにもかかわらず、地球全体で見れば生物の絶滅が加速しています。「閉じた系」として生命を捉える発想の限界や矛盾が露呈してきています。

里見 エンジニアリング的な思考は、設計図や効率性を優先し「閉じた世界」をつくり出しますが、その世界だけでは扱えない現実もあります。だからこそ、開かれたまま受け取るブリコラージュと、計画性をもつエンジニアリングは、対照的でありながらも補い合う思考様式であるという視点が必要だと思います。

  • ※1レヴィ=ストロース(Lévi‑Strauss、1908–2009年):フランスの文化人類学者で、「構造主義」の祖とされる。『親族の基本構造』(1949年)では伝統的社会に共通する無意識的な構造を論じ、『悲しき熱帯』(1955年)では近代ヨーロッパ文明を大胆に相対化。『野生の思考』(1962年)では「ブリコラージュ」の概念を提示し、人間の思考と創造のあり方を再定義した。日本の人文社会系学問にも大きな影響を与えた。
  • ※2雨落ち:軒先から落ちる雨水が地面に当たる場所のこと。雨水の跳ね返りによって外壁が汚れたり地面が掘られたりするため、玉砂利などを敷いて雨水の跳ね返りを防ぐ。玉砂利が逃げないように古い瓦などで留めている。
「エンジニアリング」と「ブリコラージュ」が対照的でありながら補い合う関係であることが見えてきました。実践の場面では、その二つの思考様式が交差する瞬間もあるのではないでしょうか。

森田 「閉じる」思考と「開く」思考という対比でいえば、「開かれた系」として生命を捉える視点から新しい食料生産の方法を研究・開発している科学者の舩橋真俊*3さんが以前、「ロケット」と「ヨット」という比喩を使っていました。ロケットは、あらかじめ設定された目的地に向かって、緻密に計算された軌道を進んでいく、閉鎖された制御系の象徴です。一方でヨットの場合は、風や波といった常に変化する自然環境と対話しながら、その都度、かじを切り、航路を柔軟に調整していく必要がある。気候や潮の流れを見て対応を変えながら進み、環境の変化に開かれた判断や選択が求められます。 

里見 確かにロケットとヨットの比喩は的を射ていてわかりやすいですね。人類学の研究で欠かせないフィールドワークも、ロケットとヨットの乗り分けが求められる場です。若い学生から「ブリコラージュ的な視点で、準備せず現場に飛び込めばいいのでは?」と聞かれることがあるのですが、それは大きな誤解です。私自身、現地調査に入る際には事前に研究の筋立てを入念に準備してから出発します。でも面白いことに、実際の現場に入ると想定外の出来事に次々と出会い、むしろそこで得られるズレこそが、既存の枠組みではすくい取れなかった知見を得るきっかけになることが多くあります。これはロケット型の事前設計があるからこそ、現場で想定外の出来事に敏感に反応できるのだとも思います。 

森田 一方で、計画に固執しすぎると、世界が本来もっている多様性や環境との関係性を見落とす危険もありそうです。対象を一時的に閉じたものとして扱う方法も場面によってはもちろん有効ですが、時にはそれを開いたものとして捉え直す柔軟さも問われます。重要なのは、状況に応じてどちらの思考様式が適しているのかを見極めて使い分けることなのかもしれません。

里見 はい、一度計画をしっかりと描きつつ、それを現場で何度も書き換える柔軟性をもつことが大切です。現実は常に予想を裏切るからです。そして、ロケットとヨットを自在に行き来する往還のプロセスこそが、創造をより豊かにしていくのだと思います。これは人類学に限らず、他の分野の学問やビジネス、どんな創造的営みにおいても同じだと思います。

  • ※3舩橋 真俊:物理学博士、実業家。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所リサーチディレクター、京都大学特任教授。2021年には株式会社SynecOを設立し、地球の生態系が本来もっている自己組織化能力を多面的・総合的に活用しながら有用植物を生産する農法である「シネコカルチャー(協生農法)」の理論構築の研究と社会実装するためのソリューションの開発をしている。近刊『拡張生態系』(祥伝社、2025年)にて、「ロケット」と「ヨット」の例えを用いた言及をしている。
確かに、さまざまな領域において、エンジニアリング的な計画性とブリコラージュ的な柔軟性の両方が重要です。しかし、現代社会、特にビジネスの現場では、効率性や最適化が優先されがちです。加えて、企業を取り巻く状況は市場や技術、社会課題の変化などにより複雑化し、不確実性も増しています。こうした環境の中では、どのような視点や姿勢が求められるでしょうか?

森田 学生時代によく考えさせられた言葉に「将来の進路」があります。「キャリアパス」という言葉もありますが、進路や岐路、パス(path)など、私たちは人生の歩みをしばしば「道」として思い描きます。その「道」には、整備された道路のようなイメージがありませんか?しかし、実際の人生の歩みは「道路」よりも「水路」に近いと思います。水の流れは地形を変え、地形の変化が新しい流れを導く。これはもともと哲学者の平井靖史※4さんに教えてもらったことですが、フランスの哲学者ベルクソン※5は、自由を論じるときに、地形と水路のメタファーを用いました。道を道路のようなものではなく水路として思い浮かべると、地形そのものが変化することによって、新しい道が開かれうることが想像できます。選択肢の多寡ではなく、地形の変化の可能性にこそ、真の意味での「自由」があるということです。

里見 近年の人類学の研究では、複数の「水路」が交錯するような現実社会の複雑さを理解しようと、人間中心の視点から離れ、モノや動植物、制度や技術など人間以外の要素を含めたネットワークの相互作用を観察しようというアプローチが出てきています。例えば「マツタケ」を題材に、人類学者のアナ・チン※6さんがおこなった研究は非常に示唆的です。日本で秋の風物詩として珍重されるマツタケが、実は北米や中国などの人里離れた森で収穫され、その流通過程にはさまざまな政治・経済的な要因(地政学的な歴史、気候変動、土地利用、格差、移民の生活条件など)が複雑に絡み合っていることを解明します。マツタケそのものは無言ですが、それを取り巻くネットワーク全体が、実に多層的な声や関係性に満ちていることがわかります。

森田 アナ・チンさん著の『マツタケ』でとりわけ印象的だったのは、「あふれ出てくる物語は、きれいにまとまることがない」という一節でした。時間的にも空間的にもあまりに多様なものと関わってしまっている私たちの存在は、とても言葉では語り尽くせない。そもそも私たちが普段使っている「言葉」そのものが、人間中心のスケールに閉じられています。だから、時には既存の言葉でまとめよう、閉じようとするだけでなく、あえて「あふれ出てくる物語(a rush of stories)」に身を委ねてみること。それによって地形が変化し、新たな水路が開かれていく「自由」の可能性に賭けてみてもいいはずです。

里見 技術や市場環境、サプライチェーンの変化によって、企業が及ぼす影響範囲は想定を超えて広がり続けています。すべてを掌握しようとするよりも、今ある制度や構造を一段引いて見つめ直しながら予測不能な関係性に向き合うこと、計画を書き換える柔軟さをもつことが問われているのかもしれません。とても難しいことだと思いますが、一度「閉じる」ことで制御可能な範囲から行動を起こしつつも、そこに思わぬ関係性が現れる余白を「開いて」おく。つまり、閉じる視点だけでなく、開く視点をもつことが、複雑な世界を歩むための実践的な態度なのだと思います。

  • ※4平井 靖史:哲学者、慶應義塾大学教授。近現代フランス哲学を専門とし、時間論を研究。主な著書に『世界は時間でできているーベルクソン時間哲学入門』(青土社、2022年)など。
  • ※5アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859–1941年):20世紀初頭を中心に活躍したフランスの哲学者。理性や知性だけでは捉えきれない生命の根源的側面を探究する「生の哲学」によって近代的理性観に異議を唱えた。明快かつ美しい文章への評価も高く1927年にはノーベル文学賞を受賞。哲学のみならず文学や芸術にも大きな影響を与えた。
  • ※6アナ・チン(Anna Tsing):カリフォルニア大学サンタクルーズ校教授、文化人類学者。インドネシア・南カリマンタン州でのフィールドワークを通じて、森林伐採の社会経済的背景をローカルかつグローバルな視点から明らかにしてきた。著書『The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins』(Princeton University Press、2015年)では、人間と非人間の関係性から資本主義の周縁を照射し、世界的な注目を集めた。邦訳は『マツタケ:不確定な時代を生きる術』(訳・赤嶺淳/みすず書房2019年)。
「ブリコラージュ」と「エンジニアリング」の思考の往還は、豊かな創造と柔軟な実践につながるということが見えてきたように思います。この考え方は、進化し続けるテクノロジーとの向き合い方にも重要なヒントになると考えますが、テクノロジーの進化が加速する世界において、私たちはそれとどのような関係を築いていくべきだとお考えでしょうか?お二人のご意見をお聞かせください。

森田 いつの時代もテクノロジーはありました。「火を使うこと」「文字を書くこと」「言葉を話すこと」も、広い意味では人類にとってのテクノロジーです。オードリー・タン※7さんが先日、「民主主義もテクノロジーの一形態である」とおっしゃっていましたが、人間の能力や可能性を拡張する道具やシステムはすべて広義のテクノロジーと言っていいでしょう。道具の価値は、これをどう生かすかにかかっています。同じ道具でも、使い方次第で生活を豊かにも、窮屈にもできます。それは文字というテクノロジーだろうと、スマホだろうと、民主主義だろうと同じことです。「この道具はどんな意味や価値をもつだろうか」と原理にさかのぼって考え、開かれた姿勢でくり返しテクノロジーとの関係を結び直していく必要があるのだと思います。

里見 つまりテクノロジーの良し悪しは、道具そのものではなく、使い手である私たちとの関わり方次第だということですね。冒頭で森田さんが古い家屋を手入れしながら暮らしている話をされましたが、「手入れ」という行為は、単に壊れたものを修繕することではなく、素材や環境との対話を通じて新たな意味を引き出す営みだと思います。その「手入れ」という感覚が、これからのテクノロジーとの関係性を考える上で重要な鍵になると感じました。

森田 解剖学者の養老孟司※8さんは「手入れという思想」という言い方をされていますが、「手入れ」はとても奥深い言葉です。京都に法然院というお寺がありますが、ここの庫裏玄関には「一掃除 二勤行とや 落葉掃く」と書かれたついたてが置かれています。一に掃除、二に勤行、そして三に学問というのがこのお寺の伝統だそうです。落葉を掃く度に環境の微細な動きを感じ、感じながら自分もまた変化していく。そうした手入れの積み重ねの上に今の境内の環境がある。学問や知識はそうした地道な営みの上にしか成り立たない。テクノロジーも同じで、どんなに優れた道具でも、日々手入れをして、対話を重ねていくことが大切なんだと思います。

里見 レヴィ=ストロースが『野生の思考』でブリコラージュを論じた背景には、世界の秩序ががれきのように崩壊した第二次世界大戦の経験がありました。壊れた世界をどうつくり直して生きていくかという、環境から与えられた大きな問いが根底にあったのだと思います。私自身も東日本大震災を経験したとき、昨日までの前提が一瞬で消える状況に直面しました。不確実なことが多々ある時代に、これからのテクノロジーとの関係性を考えるのに必要なことは、技術と社会との関係をどう捉えるかという人びとの姿勢だと感じています。

森田 テクノロジーの進化は加速し続けるけれど、人間や社会がその速度に追いつけなくなりつつあることは心配です。ただ新しい道具を次々と生み出していくだけでなく、すでにあるものを手入れしながら新しい使い方を見つけ出していくブリコラージュ的な姿勢によってこそ開ける広大な可能性があることは、忘れないでいたいと思います。

里見 その通りだと思います。道具を利用すること、環境との関係を結ぶことのいずれもが「手入れ」であって、日々の対話を重ねるような姿勢が未来を考えることにつながります。計画を立て、秩序を設計・維持するエンジニアリングと、現場の雑多さや偶発性から学び直すブリコラージュ。この二つの思考様式を行き来しながらテクノロジーと環境、社会との関係性をさまざまな方向から編み直すことが必要だと思います。

  • ※7オードリー・タン(Audrey Tang / 唐鳳):プログラマー・元台湾デジタル担当政務委員(閣僚)。幼少期からコンピュータに興味をもち、独学でプログラミング言語を勉強して15歳で起業し、米シリコンバレーに渡る。35歳のときに史上最年少で行政院(内閣)に入閣し、デジタル担当政務委員に就任。行政や政治のデジタル化を主導した。
  • ※8養老 孟司:医学者・解剖学者、東京大学名誉教授。脳科学や解剖学を基盤に、心の問題や社会現象について幅広い評論活動を展開。『バカの壁』(新潮社、2003年)は450万部を超えるベストセラーとなり、新語・流行語大賞および毎日出版文化賞特別賞を受賞。『養老孟司特別講義 手入れという思想』(新潮社、2013年)では、「手入れ」という営みを通して、人間と自然との関係性を論じた。

Text by Kosuke Aoyama
Photographs by Masaharu Hatta 

プロフィール

里見 龍樹

さとみ・りゅうじゅ

文化人類学者・早稲田大学 人間科学学術院 教授

1980年東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科単位取得退学。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員、早稲田大学人間科学学術院専任講師、准教授を経て、2024年より現職。著書に『不穏な熱帯:人間〈以前〉と〈以後〉の人類学』(河出書房新社、2022年)、『入門講義 現代人類学の冒険』(平凡社、2024年)ほか。

森田 真生 

もりた・まさお

独立研究者

1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。京都を拠点に研究・執筆の傍ら、国内外で「数学の演奏会」などのライブ活動をおこなっている。著書に『数学する身体』(新潮社、2015年)、『数学の贈り物』(ミシマ社、2019年)、『僕たちはどう生きるか』(集英社、2021年)、『計算する生命』(新潮社、2021年)、絵本『アリになった数学者』(絵・脇坂克二/福音館書店、2018年)、訳書に『センス・オブ・ワンダー』(著・レイチェル・カーソン 絵・西村ツチカ/筑摩書房、2024年)がある。

青山 公亮

あおやま・こうすけ

研究員/プロデューサー

2023年1月より電通総研。主な活動テーマは「ケア」「社会システム」。PRプランナーの実務経験と社会科学研究のバックグラウンドを生かして研究活動をおこなう。